みなさんごきげんよう。先日タイトなスケジュールの日があり、とても急いでおりました。しかし誰もがそんな日に限って思い通りにいかないという経験がおありのはずです。私も嫌な予感とでもいいますか、案の定そのような展開になってしまったのです。それも最悪のシナリオで、とても苦手な方の都合で時間が大幅に遅れるというストレスが溜まる状況でした。
冷静に冷静にと自分に言い聞かせますが、酷な言い方をすれば言い聞かせてる時点でもはや手遅れなのです。頭で、脳みそで意識してるということは、それだけで不自然であり、無理をしているということ。広大な大自然でなら大声を叫べばスッキリですが、現世界で本能のままそんなことをしてしまったら、危ない人間とみなされ場合によっては警察にお世話になることになります。もっとも、その時点で我慢を強いられてるわけだから、もっと凶悪な事件に発展しているケースが後を絶たないのです。
なんとか苦手な人のトラブルは最小限に食い止め、急いで目的地に向かうことになりました。なんとか無事に到着し、ひとまずやれやれです。あとは、深呼吸をして交渉に臨んだのですが、ここからが本当の悲劇の幕開けでございました。そこの会社は、とにかく対応がよく、それを売りにしております。これまでも何度か訪れたのですが、どの方の対応も素晴らしく本当に助かっておりました。だからこそ、ハードなスケジュールであっても是が非でも向かったのです。それまでの疲労が全て吹き飛ぶであろうと期待した幻想はもろくも崩れ去り、これ以上ない絶望感や疲労感に苛まれました。
この世ですから、こういった出来事はあって当たり前です。冷静に考えれば、全員が同じ方向を向くなんてことはありえないのです。とはいえ、今までの私であればこの境地に達するまでには数日かかります。今回のパターンであれば、複数の嫌なことがあったわけですから、「なんでおれだけ」「どうせ世の中こんなものだろ」とか、世捨て人のようなふてくされた思考しか浮かびませんでした。しかしこの日は違っていたのです。
ちょっと前に古武術研究家の甲野善紀先生と、身体思想家の方条遼雨先生によるコラボの講座に行ったときに聞いた話なのですが、脳と手は出しゃばりであると。特に脳、つまり頭で考えすぎるせいで自分の直感的な部分が失われるのだということでした。確かに昔の言葉で言えば、腑に落ちるとか、腹を決めるというのがありました。先人は、直感、本能で物事を決めていたのかもしれません。国際武学研究会の光岡英稔師範も、「腹が立つ→ムカつく→頭にくる→キレる」と、怒りが身体の上へ上へと上がってしまい、感情をコントロールできなくなってしまっていると仰っておりました。
ですからそれ以来、私は頭で考えるのではなく、もとい「考える」という行為さえやめました。実際やめれてはいませんが、お腹で決めよう、体の中心に任せようとしたのです。それが功を奏したのか、はたまた偶然なのかは分かりませんが、何年来話していない知人複数人から連絡が来たり、急な仕事の案件が舞い込んできたりしました。
私は何度かひどい目に遭っているので、オカルト、占い、スピリチュアルなことはほとんど信じておりません。そんなまわりくどいことを言わなくても、人間には科学で解明できないような本能的なものを持っているとは思います。自分の人生を振り返ってもそう思うことはたくさんありますし、今回の出来事もそうとしか思えません。
まとめれば、最初の苦手な人は私に嫌がらせをしようとしたのではなく(もちろん本人にその自覚はありません)、むしろ行かない方がいいんだよと教えてくれていたのです。体を張って止めてくれていたのですね、そうと気付いていれば行かなくて済んだのですから。
お腹で生活することによってそれまでと全く違った景色が見えたわけです。もし、脳はでしゃばりだということを教えてもらえてなかったら、嫌なことが立て続けに起こった単なる厄日だとしか思えなかったでしょう。これでは、歳を重ね、年輪が深くなることは出来ずに成長しません。
思い通りに行かず、嫌なことがあるというのは、自分の本能が、周りの協力を得ながらストップをかけてくれているのではないか?そんなふうに感じます。答えなんて欲しくはありません、ただ勘違いでもいい、こう思うことで自分にも周りにも感謝の念が芽生えるならそれに越したことはないのかなと思います。
これを機に甲野先生が21歳の時に気付いたという「人間の運命は完璧に決まっていて完璧に自由である」という、少し前までは難しすぎて気にもならなかった言葉に急に惹きつけられました。これからも、引き続き腹を中心に生活していこうかと思います。今の予感だといいことも悪いことも存在せず、全てが同じことなんではないかと思います。ただ、脳みそがそういうフィルターを作ってしまったのでは・・・。