ちりちょうずと読む。塵は空中の細かいゴミ・埃のことを言い、鹿が土の上を走るとそれらが舞い上がるという語源からきている。手水は神社やお寺にある手水場と一緒で字の如く手を洗うという意味。
塵手水は手を清める水がなかったために、地面の草をむしって手を拭く、もしくは草もなかったら空中の埃で手を揉みキレイにするという意味である。
大相撲では、取組の時力士が出番で呼び上げられたら二字口(東西の土俵の徳俵のところ)に立ち、黙礼(目でお互いを見合い気持ちだけ礼をするのが最近は軽くお辞儀する)してから東方力士は赤房下、西方力士は白房下で四股を踏み(十両以上の力士ははここで力水を受け、塩を撒く)、そのあと二字口に戻りここで初めて塵手水を切る(する)。
動作としては蹲踞して、①両手を地面すれすれまで伸ばす(草を拾ってる動作)、②伸ばした手を胸の位置まで戻し、右手を上に→左手を上にと揉むようにする(埃で手をキレイにするフリ)、③パチンと柏手を打つ、④掌が上を向くようにし、その後翼を広げるように大きく開く⑤掌を返す
この一連の流れとしては、まず最初に相撲を取る前に手をキレイにし、その後私は手に何も持っていないです、正々堂々戦いますよという意思表示が込められている。
本場所の土俵だけでなく稽古場でも行われる。八角部屋はなかったが、他の相撲部屋では稽古が終わる時に行われていた。この所作の号令をかけると、1から8まであり、結構長い。稽古でくたくたになった体に蹲踞して一定時間黙想してからの塵手水は少しハードだ。部屋によってはこの動作を×2、×3やる。太腿が痺れてきそうだった。
アマチュア相撲でも塵手水はある、私の通っていた道場でも稽古の終わりにあった。私の時代のわんぱく相撲全国大会では、予選の試合は二字口で普通の立礼だが勝ち残った準々決勝からは塩を撒いてから塵手水を切っていた。小学生の試合ではあまり塵を切る所作はなかったので、憧れの一つであった。
中学からは試合で塵手水を切るのがごく当たり前なってきた。大規模なとても時間がかかる時は塵はなく立礼で済ます試合もまれにあった。最近だとインカレ(学生選手権)の団体戦は進行時間の短縮のためか立礼になっていた。塵手水は相撲を取る人間にとって花形であり、精神を鎮め、いざ尋常に勝負という合図でもある。時間の関係で致し方ないとはいえ、やはりあってほしいものだ。
しかし、こんな大事なことを私は十両に上がるまで知らなかったし考えたこともなかった。新十両力士は塵手水に始まり諸々の所作の勉強会がある、当時は大山親方(元幕内大飛)に指導いただき初めて意味を知った。当時はあーそうなのかと思ったが、引退して今、相撲の一つ一つの所作がとてもキレイで美しい伝統文化だとあらためて思う。勝ち負けを決する世界で自分の身を清め、心を澄んだ状態で闘うというのは世界でも日本だけではないか?戦う相手を敬う心、今一度日本文化のよさを再認識したいものだ。