急ぐ、慌てる、焦る、早くなんていうものは、悪い体癖であり、これはもう資本主義社会の弊害としか思えない。身体感覚からすると、もはや体幹の軸は崩壊している。これらのことをやろうと思えば思うほど、逆に遅くなってしまうだろう。40年以上生きてくると、これはもはや何となくそう思うではなく、確信だと胸を張って言える。
人それぞれのペースが違うから何を基準に、境目にすればいいかは難しいところではある。しかし、体幹が崩れて慌てふためかないようにするには四股を踏んでもらうしかない。心を落ち着け、腰を据え、ゆっくりと行わないと四股は踏めないからだ。少しの気の乱れも四股は見逃がしてはくれない。集中できていないとすぐにおっとっととバランスを崩れてしまう。きちんと踏めている時というのは、心も体も整っているのだ。そして常に深層心理部分において、何百兆個もの細胞をフルに活用し、バランスを取ろうと体全体を使っているのだ。しかし欲を言えば、この四股を踏んでいる時の感覚を日常の違う動きをしている時にも活用できないかと考える。24時間四股を踏み続けるわけにはいかない、寝てる時以外は、この体の整った状態をなんとか保ちたい。
これがなんとできなくはなかった、歩く時にできた。急いで歩いているときの動きを覚えているだろうか?足を踏み出し、踵から地面につけてそのあとつま先に体重をかける。膝に重心がかかり上半身も前傾になる、バタバタして慌てふためいてなんとか最寄りの駅まで辿り着いた・・なんてのが一般的だ。しかし、これ単純に言えばツンのめってのを足をどんどん出して転ばないようにしてるだけなのだ。この時の体幹はすでに失われている。逆のパターンを想像してほしい、急いでいる時の感覚で四股は踏めるだろうか?絶対踏めない。
急いでる人の表情を見ていると、気の毒にさえ思えてくる。イライラしてるというか、人間が一番他人に見られたくない悪い素の部分が余すことなく曝け出されてしまっている。日々そんなことが常態化していたら精神崩壊するのも仕方ないとしか言えない。あー遅れるかもしれないっていう危機感だけでなく、バタバタ早歩きなんかしてたら余計遅くなってしまうということを体のどこかで感じているのですよ。パニックが起きているのです。結局は体がうまく使えていないということを自分で覆い隠すために、急げという意識を掘り起こし、焦りという気持ちでなんとなく早くなっているのではというごまかしを製造してるのだ。
余裕がある時の方が意外と早く着いたなんて経験はないだろうか?急いでないのになんか特したような時ね。その日はたまたま調子がよかったとか、ツイてるとか、気分がいいとか何となく良かったくらいの感じだと思うが、これはなんとなくではなく、間違いなくそちらの方が早い。四股を踏む時はゆっくりとした動作でゆったりとした心地で踏む、けれども決して脱力はしない。丹田というお腹の部分はしっかりと軸がブレないようになっている。この感覚で歩くと、足の動きはゆっくりだが、歩幅が大きくなる。歩幅が狭い足で急ぐより、歩幅が広い足で悠然と歩くほうが速いのだ。
そして、一般的な歩き方の踵からつけてやがてつま先に重心をかける歩き方は必ず膝・腰に故障をきたす。多くのお年寄りが足腰が不自由になっているのはこのせいだ。残念ながら人間は元来非常に不安定な凸凹の道に適応する進化してきた、なので真っ平な硬いアスファルトの上を歩くことには適応していない。更に日本人は靴の文化ではなく草履であった、草履で踵からつま先へ重心を移動させる歩き方をしたらどうなるだろう。転びやすくなるし、草履もすぐにダメになる。
四股のように、足の裏が均等に着地するように歩く。そして、膝はモデルさんのようにピンと伸ばすのではなく軽く曲がったような感じで。横から見たらくの字になっているような状態で歩く、目線とお臍は同じ向きに。こうして歩くと、無意識に足が前に運ばれていくような感じにさえ思えてくる。しかも面白いのは、下半身は前へ進むのに、上半身は逆に後ろへ行こうとする。若干起こりえるこの上半身と下半身の反発力で、歩くスピードをアシストしているのだ。これにはおったまげた、家人と2人並んで私がこの歩き方をしたら、いつのまにかどんどん先を歩いてしまって、家人は慌てたように急いで来ていた。当然無意識であったから、まさかそんなに早く歩いているとは思わなかったのだ。しかも、気配すら感じないのだから周りの人間も気付かない。これは非常に面白かった、先述した人間が元来不安定な道を歩くように進化してきたということで、こうした現象を少しでも手に取るように感じたいならば、下りでも上りでもいいので坂道で歩くとわかりやすいかもしれない。私なんか平坦な道が一番苦手で難しい、それは人生も一緒で平々凡々な生活が一番難しいのと同じなのかもしれない。