今日はこれを発したくてたまらなかった、とにかく相撲が好きで仕方ない。毎朝四股を踏むことから始まるがこれがないと、一日が締まらない。四股をピチッと踏んで下半身が整った状態というのは何物にも変え難い満たされた心身になる。歩き出しの瞬間の、左右のバランス、腰の据わり具合は盤石の如く。それに伴い、心も慌てず騒がず、落ち着いてくる。
世の中には色んなトレーニング方法があり、私はそれらも合間を見ながらちょいちょいつまむ。あえて、その時は四股をやめて「浮気」してみるのだ。やってみると最初はいい刺激に感じる、なかなか効果があるなと思うのでそれを続けてみる。段々体のバランスがおかしくなる、気のせいだと言い聞かせさらに続けることでいよいよ体幹が崩れ、痛みが出始める。この時初めて四股の大切さ、有り難さを再確認するのである。
おそらく、浮気の最初は四股で整えた体の残り香がまだあるからであろう。たまたまうまいことミックスされて、より身体に効果をもたらしてるように盲目してしまうのかもしれない。やはり四股=相撲は自分にとって切っても切れないものなのである。No,Shiko. No,Lifeと表現しても差し障りない。
今こうして、文章を書いていると「浮気」なんてものは一瞬の幻覚に近いことかもしれない。四股という大事な存在が当たり前になってくると、その有り難さを体が気づかなくなり、新たな刺激を求める。それは向上心のようにも捉えられるかもしれないが、次々新しいことに順応できるほど体は器用ではない。向上心があるのなら、四股の回数を増やす。1000回やっても飽きたらないなら、深く腰を下ろしてゆっくり倍の時間をかけるとか工夫する。四股の工夫は無限大だ。
大鵬さんが四股1000回踏んでいたなんて話を聞いたことがあるが、大横綱なるならばそのくらいできなければと幾度も挑戦したことがある。結局、いつも600〜700回の間で挫折した、初めは足の筋肉に響くというかしみるというかとにかくきつい。それを乗り越えるとランナーズハイみたいに足が軽くなり、スイッチが入ったかのようにゾーン状態、もしくはフロー状態になる。そこを越えるともはや足の感覚がなくなる、ここからは精神との闘いになるのだが、いかんせん今の相撲部屋の稽古時間では1000回まで辿り着くことは不可能だ。たっぷりと時間を取らないと、土俵の中で相撲を取る稽古が始まってしまう。
私自身、とにかく飽き性で長続きするということができない人間である。だからなのか、余計に比叡山や、大峯千日回峰行に憧れを抱く。しかし、あんな過酷なことは人生今からチャレンジしようとは思わない。せめて、四股1000回は満行してみたい、フルマラソンも達成してみたいが、まずは四股かな?
なぜここまで四股に魅了されるのかはわからない、四股が体にいいのか、それとも相撲の型に自分がはめられてしまっているのかどちらかはわからない。けれども、自分がいいと思ったことはやはり発信していくべきだろう。混沌としたこの世の中を生き抜くためには、お金を稼ぐことでもなければ、知識を詰め込むことでもない。それらもやってはいいとは思うが、まずは揺るがない心を作り上げる。それには、土台をしっかりとした身体感覚を養うことが必須である。つまり四股だ。この四股を広めていきたい。
今年の一月に「相撲術」という名称を掲げた。特に怪しい術を使うわけではないが、相撲の動きを日常生活に取り入れられないかという考えから始まった。四股から始まる相撲の体の使い方を普段の生活に取り入れることで腰痛・膝痛などの予防になるのではないかと踏んだのである。この予感は確信に変わった、私自身がビックリするくらいである。日常生活のポピュラーなところでいえば、食器を棚にしまう時の動作に相撲の動きを取り入れてみる。ガチャガチャ音がしない、丁寧な流暢な動きになるので落として割ることもない、当然体も痛めない。相撲の動きは丁寧な動き、昔の日本人は優れた感性でそういった動きを会得し、受け継がれていった。マニュアルなんかない、普段の生活そのものが丁寧な動きだから。
時代劇なんか見てると、なんでわざわざこんな面倒くさい動きするんだろう?もっと簡単に早くできるのにとヤキモキする場面をたまに見かける。襖を開けるときなんか、一回片手で少し開けて、そのあと両手で開けるという二度手間。けれども、これはしっかりと体の軸を使い丁寧な動きになっている。大きな音も立てなければ、体の感覚も鈍らない、精神がぐらつかない。効率よく早くなんていう概念はそろそろ終わらせるべきなのではと思う。
やる側も、見守る側も全ての人が長い目でじっくり腰を据えて事を為すようになれば、ストレスなんでなくなるし、心を病む人も少なくなる。我が相撲術もそんなふうに社会に貢献できたらなと思っております。