人は褒められると嬉しい生き物である、それは変えようのない事実だが、根拠のない心から思ってないのに褒められても嬉しくはないものだ。なぜかといえば、人間が本来備わっている本能的なものが相手の思考をキャッチすることなど容易いからだ。
最近は褒めて伸ばそうという、風潮や書籍が出回っている。しかし、感情の一つでもある褒めるという行為を、手段化することで不自然になってしまっている。褒められる立場の人のために、無理して褒める必要なんかない。褒める方だって、心からそう思った時に褒めたいのだ。褒めたくない時にやると、ものすごくストレスになる。
街で親子を見かけると、会話の中で褒めてるが、声のトーンが一致していない。語気が強いのだ、何か違和感あるなぁと感じていたが、やはり直後にお説教が始まっていた。結局は、子供を言う通りにさせたいがために思ってもない褒めるという行動をし、何も変わらなかったためにストレスが溜まり、余計にイライラしてしまったのだ。
そして、そのお説教の長いこと。ダメなものはダメとシンプルで済ませばいいのに、なぜダメなのかと聞かれてもないのに延々と説明している。ちっちゃい子供が理解できるはずもなく、右から左への状態だろう。まるで親が子育てを自分のノルマかのように、言うだけ言ってさっさと済ます、気持ちがこもっていないコールセンターのオペレーターのような感じがした。
そんなに言うことを聞かせたかったら、スマホいじって放置せず、常に傍に寄り添い、何かあったらすぐに駆けつける頼れるヒーローでなければならない。今の日本人は子供を舐めているとしか思えない。一番周りを観察しているのが子供なのに。その点外国人の子供はちゃんとしている、電車でも馬鹿みたいな大声は出さない。それは常に傍に親が寄り添っているから、話す時もスマホ見ながらとかではなく、しっかり顔を近づけて話している。ちゃんとコミュニケーションが取れているのだ。
相撲の世界でもそうだ、例えば稽古で相手が引いてきたところをたまたま勢いあまって押し出したときに褒める親方がいた。押しが基本の相撲だから決まり手としては押し出しだから褒めたのだろう。しかし、一部始終をしっかり見ていたら、たまたま流れでそうなっただけであるのはわかるはず。これは、しっかり見ていない証拠、職務怠慢である。こんなんで褒められても嬉しくも何ともないし、自信にもならない。むしろ、ちゃんと見てないんだなとガッカリさせられる。
逆に一生懸命動き回って動き回って粘って、最後に叩いた場合は、怒られる。それまで目一杯力出してるのにだ。プロセスなんて、見てないし、見極めようともしないから今の相撲界はレベルが低いのだ。たとえどんなストーリーがあったとしても、押し出しはよくて、叩き込みはダメなのだ。だったら稽古なんて見なくていい、決まり手をメモってあとで提出すればいいだけだ。
モンゴル勢はその辺のところを見極めていたのかな?日本人の褒めるという行為なんて、所詮はちっぽけなもの。そんなことにとらわれたところで出世なんてまず無理だ、こんなところではないだろうか?怒られようが否定されようが、自分で考え腹を決めて決断して相撲を取れば、たとえ叩こうが投げようが構わない。立ち合い変化だってそう思う、失敗した時のリスクは半端ないわけなんだから。
今の若者は厳しさから逃げてるなんていうのは嘘である。逆に厳しさを欲している、けれども本物に限るよ。本気で怒られれば、骨身に沁みて伝わるし、本気で褒められればとても嬉しい。それで十分じゃないだろうか?金儲けのために余計な書籍を出して、人間本来の行動をするような人間には気をつけた方がいい。人間の喜怒哀楽を利用した、ある意味詐欺商法である。
お金の詐欺にも御用心だが、心の詐欺にもお気をつけください。それは私自身にも言えるが・・。