飲酒は20歳になってからと言われる通り、大人への一歩を踏み出すアイテムかもしれない。しかし、おそらく20歳まで飲まないでいた人間は昔はほぼ皆無だっただろう。別にバッシングを浴びても構わないが、中卒が多かった昭和の大相撲の世界なんか、入門していきなり飲まされたなんて話はザラだし、大学相撲もとい高校相撲の部活動でも、寮や下宿や合宿なんぞで隠れてチビチビ飲んでたんじゃないか?というか、社会全体がそんな空気だったであろう。娯楽と言われるのが今と違って少なく、お金をかけない憂さ晴らしなんて酒しかなかったんじゃないかな?

 しかし、20歳になっていきなり飲んだところで悪酔いせずにいける口なんて人間はそういないはずだ。世の中には飲酒に関しては3種類の人間がいるそうだ。「生まれ持って酒が強い人間」、「飲んでいるうちに少しずつ強くなっていく人間」、「全く飲めない人間、下戸」である。

 お酒って、神事でも使われる。土俵祭だってお酒を使う、神聖な飲み物のような雰囲気を醸し出している。それはそうだ、お酒を作るのに日本酒の場合はお米が主原料だ。大地の恵みを手間暇かけて作り上げるのだからありがたい飲み物である。

 けれども、そんなこと意識して飲んでる人間なんてまずいないだろう。日本酒に限らずアルコール全般なんて、最初は皆不味くて体がしんどくなるだけの全くありがたくない飲み物だ。今40歳になって、なんでこんなもの飲んでいたのだろうとまるで洗脳から解かれたみたいにスパッとやめた。それは、自分の飲酒のルーツを辿るとやはり飲まされたという強制された過去があったからだ。

 誰も飲みたくないのに、飲ませてやるというまるで望みを叶えてやってるんだという上から目線。それが大人への階段かと当時は思っていたが、手を変えたイジメだ。注がれたら一気、注ぎにいけば返杯は3杯、頭がおかしいとしか言いようがない。そういった振る舞いをカッコよくさえ思え、それを受け入れたら強くなると思っていたのだから相当青かった。これが山形の田舎者のレベルだ、少し飲めるようになったらまるでそれだけで大人になったような錯覚に陥る。

 自分が嫌な思いをしたのに、今度は下の者に同じ思いをさせようとしたのだから始末が悪い。酒強くなって相撲勝てるなら苦労はしない、アルコールで蝕まれ、若い時の無茶はツケになって後々自分に返ってくるのだ。

 酒を飲まなくなった理由はまだある、体に悪いからだけでなく、酒飲みの人間とはどうしてもうまくやっていけない。考え方が幼稚すぎるからだ、力士時代こんなことがあった。初日の前日に激励会を開いてもらったのだが、次の日から2週間も闘わなければいけない。しかも初日は最も大事な日だ、数年はせっかく開いてもらってる激励会だから何も言わず我慢した。けれども年齢を重ねると共にきつくなってくる、そのことを丁寧にしっかりと、やんわり言ったのだが、「誰のために開いてると思ってるんだ」「そんなこと言ってるから勝てないんだよ」「だったら付き合いを考えさせてもらうよ」こう返された。

 今だったら上等じゃねえかとなるが、当時は言えなかったんだよな。軽いマインドコントロールだよな、真の人間関係を模索せずに目先の人間関係を選んでしまった自分が明らかに悪い。その方には恨みはないが、その後ご縁は切れた。所詮そんなこという人間なんて、いつか切れるものなんだよ。だったら最初から付き合わなければよかったと思う、大変無駄な時間を過ごした。そういう人間と関わらなければ、自分の相撲人生はどう変わったかとふと思う。

 今更後悔しても仕方ない、まあ結論としてはお酒・タバコなどは美味しいと思う人だけが飲めばいいってこと。飲めない奴はダメだとかいう全く根拠のないのことをさもありげに言うバカの言うことなんか聞かなくていい、私はメンタル弱い方だから今日までそういうマインドになるのに時間かかったが、やはり40歳からは自分の身も守らないといけないからね。

 コロナになって、人に会えないということがむしろ自分自身をしっかり振り返るのによかったのかもしれない。あ、でも江戸時代のお酒は今でも飲んでみたいかな?今の時代は大量生産でどれだけ体に悪い混ぜ物が入っているかわからない、まずい上に体に悪いものはこれ以上ごめんだね。

 酒飲まなくても、付き合いはできるからその辺は心配ない。酒じゃなく肴を楽しめばいい、酔った人を介抱する役目になるかな??

 

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