だいぶ遅くなりましたが、大相撲ファンの皆様、三月場所もお疲れ様でした。史上初の三月場所東京開催でしたが無事終了し、東関脇照ノ富士が昨年七月場所以来3回目の優勝を果たし、そして4年ぶりの大関復帰を果たしました。序二段まで落ちた人間がここまで復活した出来事は相撲史に残るであろう快挙でしたね。
では彼が類まれな強靭な精神力の持ち主かといえば、そうは思いません。ただの普通の人です。序二段に落ちている時に彼と話していますが、かなり落ち込んでいて気持ちは切れており、親方の許可が降りれば今すぐにでも辞めるという雰囲気でした。強いメンタルならそうはならないはず、ではなぜ今日(こんにち)までたどり着いたのか?それはやはり師匠の伊勢ヶ濱親方の存在が大きいと思います。それでは伊勢ヶ濱親方はどんな人物なのか?
伊勢ヶ濱親方は第63代横綱旭富士で、優勝は4回、1991年の秋ロンドン公演の際つけられたニックネームは「シーライオン」、ちなみに八角理事長は「ブルドック」でした。近畿大学を2年で中退し、一度は郷里の青森で漁師をやっていましたが、その後創設間もない大島部屋に入門しています。これは相撲通なら誰もが知っている話ですが、なぜ大学をやめたのか知っている人は少ないのではないでしょうか?やめた理由は、地獄のような雑用を一年生時にこなし、やっとの思いで二年生に進級しいよいよ雑用から解放されるのかと思いきや、新入生があまり入って来ず、もう一年雑用をせねばならなくなり、耐えきれなかったからだそうです。
そして、大相撲入りしてからはスピード出世していきますが、やはり幕内上位で苦労します。千代の富士・北勝海の両横綱や、小錦などの大型力士などがひしめきあう三役以上の対戦相手と闘うためにとにかく食べて飲んで体を大きくしようとして、膵臓を壊してしまいます。親方自身もそうした病気をはじめ、怪我などでも苦労した分、弟子の気持ちが手にとるようにわかっていたのです。
だから、序二段まで落ちても辞めさせなかった。辞めたら後悔だけが残ることを察していたのです。何も特別なことはさせず、とにかく続けさせる。そして照ノ富士も自分のことを考えてくれた師匠の気持ちに動かされ、再びやる気を起こし、あとは周知の通り番付をどんどん戻していきました。
もし、違う部屋に所属していたら引退していたでしょう。怪我や病気は身をもって経験した人にしかわからないことです。一度どん底まで落ちて這い上がってきた照ノ富士には心の死角はありません。気をつけるとすれば膝、そして苦手の高安でしょうか?でも高安に関しては克服するのも時間の問題でしょう、なんだかんだいっても優勝回数で開きがありすぎます。
高安は優勝を逃したことでまた更に自信を無くしたでしょう、一番強い照ノ富士に勝っても優勝できないのだから悩みどころです。
照ノ富士関は以前 大関になる前から応援していました というより若貴の頃観ていた相撲を、観なくなり久しくなっていましたが照ノ富士関を見て又私は相撲への興味が戻ってきました。大関として活躍されていた姿をみて毎場所楽しくて仕方がありませんでしたがあの怪我で私のワクワクも不安と心配へと変わっていきました。見る見るうちに番付を下げ 身体も顔も別人のようになり それでも必ず戻ってきてくれると信じて待ち続けていました。今日 又大関へと返り咲いた照ノ富士を見ることができ諦めなくて良かった こんなに素晴らしい力士を好きになれて良かったと心からおもっています。照ノ富士の心を支えてくれた伊勢ヶ濱親方の凄さを実感いたしております。照ノ富士が土俵に上がり続ける限り私は応援し続けます
滝花様、コメント下さりありがとうございました。若貴時代の頃に相撲を見ていた方からすると、今の大相撲はやや物足りないかもしれません。しかし、照ノ富士の闘志剥き出しの貫禄ある姿はまた興味を惹きつけることとなったと思います。私も、彼が番付を落としている時に、やはり今の時代では、あのような荒々しいタイプの人間は生き残れないのかと落胆しておりましたが、見事復活を果たしてくれました。それまでの気迫に加え、一度どん底まで落ちた人間にしかわからない悟りのような境地に達した照ノ富士に敵う人間は今のところ存在しないのではないかと思います。今日番付発表ですね、再び大関の地位に名前の載った四股名は眩しく見えるでしょう。怪我などのアクシデントがない限り、優勝候補は照ノ富士になるかと思います。5月場所も楽しみですね^_^