12月というものはまことにもって忙しい、師走という言葉がなぜ使われるのか近年特に腑に落ちる。深々と寒さが増してきて空気が澄んでくる、お正月はもうすぐそこだというワクワク感に溢れる一方、用件がこなしてもこなしても湧き水の如く次から次にやってくる。落ち着いた空気と、あわただしい喧騒が入り混じっているこの季節は不思議なものである。それはまるで生まれ変わる前の最後の一波乱なのだろうか?
先日相撲指導させていただいている保育園に餅つきをしに行ってきた、以前からぜひやっていただきたいというお話しは伺っていたので喜んで承諾したのだが・・・。その保育園では今までやったことがないらしく、準備するものから一切合切尋ねられた。頭より体を使うことを得意としている私の場合、餅つきのときには専ら餅をつくか、「返し」をひたすらやっていた。餅米の準備から蒸すまでの工程や、準備するものをかすかな記憶を頼りにお伝えした。そしていざ本番、当日を迎えると心配などしてる暇もなく、一心不乱に動き回る。そして、どうにか何のトラブルもなく全工程を終えた。鏡餅二段重ねに、園児たちが一生懸命作ってくれた飾り付けを添えて、保育園の玄関に飾らせていただいた。これで神様を迎えることができる、不思議なことに普段意識散漫な園児たちも食い入るように見ていたし、自分たちも頑張ってついていた。日本古来の神事はやはり神秘というか魅力的なのだ、
だからこそこれらの文化を絶対に絶やしてはいけない。数人のお母様たちも見に来られていたので、せっかくだから餅をついてもらったのだが、つきかたがわからない。杵が重たいとかだけの問題ではない、そもそも持ち方からわからないのだ。これでは受け継ぐことができない。次世代の子供達が知りたくても教えてくれる人がいなくなってしまう。そしてもっと衝撃的だったのだが、重たい杵を園児二人一組で餅をついたのだが、女の子がペアの男の子に対し、もっとちゃんとやってよと言う・・・。それは違うでしょと、慣れないことを共同作業でやっていて、片方だけに非があるわけない。うまくいかないなら、どうやって協力し合うという考えが起こらず、自分が思い通りにいかないことをまわりのせいにしている。これは危機的状況だと思った、昔はそんなひねくれたのはごく一部のはみ出しものに限ったはずだ。これが当たり前の風潮とはなんとも嘆かわしい。そういった精神の部分も、体力的な部分も、古き良き文化で補えたら幸いである。
