「怒り」というものとどう向き合うか

生きている上でかなり重要な要素で課題であるだろう「怒り」との向き合い方、お釈迦様のような悟りを開いた方はなんら問題ないと思うが、我々一般庶民にとってはずっと避けては通れないことであると思う。今日は一日怒らないようにしようと目標を立てたとする、自分では怒らないようにしても、この「怒り」という存在は外側からやってくる現象なので、中々丸一日怒らずに済むなんて話は難しい。怒らないぞ!と決意した時に限って、思い通りにならなかった時の反動でより激しく怒りのスイッチが入ってしまうだろう。まずは何より、自身から怒りの素を作らないことから始めないといけない。思い出し笑いなんてものがあるが、その怒りバージョンもあると私は思っている。ふとした瞬間に思い出してしまうとたちまちズルズルと引き込まれてしまう、人間は進化の過程でいいことよりも悪いことがしっかり記憶に刷り込まれるようにプログラムされ、身の危険を守ってきた。そのくらい常に命に関わる思いをしてきたのだから当然ではあるが、現代はまたちょっと違うテイストになってきているから厄介である。

 思い出し怒りが始まると、中々止まることができない。挙げ句の果てに悪い意味での開き直りが始まり、それを外に発散させていく。その時の周りから見える印象なんて一体どうなんだろうと思う。しかも、脳みそはぐったり疲れる。せっかくの整えた身体感覚も崩れる、それに気付かず日常生活を送れば負の連鎖で次々と予期せぬ悪いことが起こる。それ見たことかと更に怒りを覚え、自分ではなく周りが悪いのだともう取り返しがつかないところまでいく。これがずっと続くわけではない、頭が冷えればふと我に返り、何やってたんだろうと気付く。しかし、これの繰り返しだと人間としての器を大きくしていくことには相当に時間がかかる。同じところをグルグルまわるわけだから、視野も狭まり、とてもいいことがあってもそれに気付けない、感謝できない、自信が持てない。

 決して避けては通れない怒りであるが、いきなり全くなくすことは出来ずとも少しずつ無くしていくようにすることは必ずできる。気の遠くなるようなことだが、千里の道も一歩からである。身体的に対処するならば、やはり相撲術を使わせていただく。相撲操練法や四股の時のお腹の状態、丹田に意識が集まった状況を把握しておく。怒りが起こると、この丹田から上に上がってくる。これが上がらないようにすぐに丹田に戻してあげれば良い、怒りが上がってくる様子を言語に表すとこうなる。腹が立つ→ムカつく→頭にくる→キレるである、キレたらもうおしまいだと思っていい。腹が立つでおさめてしまいたい。

 身体的に対処できなくても、まだ対処法はある。相撲術がよくわからない方もいるだろうから、別のやり方も紹介したい。これは実体験であるが、物凄く理不尽なことで怒鳴られた時のことだ。あまりに咄嗟すぎて相撲術でも対処出来なかった、壁にもたれかかるように怒りに身を任せたらこちらも止められなかっただろう。その場はまず、何事も起こらないように穏便にすませた。納得いかなくても言われるがままにした、無視するわけでもなく、あえて謝るということもなくごく自然に振る舞った。海でいう大きな波から逃げるわけでもなく、バリケードを張るわけでもなく、自然に受け止めた。自然に受け止めてもそれなりのダメージは受ける。しかし、この受けたもうというスタンスはその後に真価を発揮する。1日のうちで怒りの場面なんて一度だけとは限らない、大小様々何度かやってくるが、一切それらが気にならなくなるのだ。一度の大きな波を受け切ることで、身体がフロー状態に近い状態になり物事を冷静に俯瞰することができるようになった。そして、嬉しいかな、どんな些細な嬉しいことも見逃すことはなくなった。感謝の気持ちが絶えず、人との関わりが尊いものになっていった。

これは決して大袈裟ではない、耐え忍んだことで心の石が磨かれたのだ。我慢とはまた違うような気がする、我慢という言葉はなぜか肩に力みが入ってるような気がする。そして、何も考えずただそこに立ち止まりずっとやっておけばそのうちいいことがあるはずだみたいな軽い感じ、やはり受け止める・受けたもうがしっくりくる気がする。受け止めるには、臨機応変に動かなければいけない。

何回も何回も怒りを乗り越えることで、経験という財産がその人を幸せの方向に持っていく。たまたま今日はついていたとか、日取りがよかったなんていうことは信じない。ラッキーがつきまとうのは自分で作り上げることができると私は信じている。それを相撲術を通じて見つけたいのだ、そうすれば変な宗教に引っかかることはなくなる。些細なことでの争いもなくなる、日本という国、日本人という自分を守るためにも歩んでいく。

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