自伝29 高校相撲のオフシーズン

久しぶりの自伝である。だいぶ間が空いてしまったので前回のを見返したが、まぁなんとやる気のない文章か(笑)。あれじゃ見てくれてる人に失礼だよね、自分の中だけで収めるなら適当でもいいのかもしれないけれど、見てくれる人、楽しみにしてくれる人がいる以上ちゃんと書かないといけないね。今の時代の相撲取りと一緒になっちゃうよ(笑)。

さて、前回の続きから書きたいが、あまりにも内容が簡素でお粗末すぎるから、すこしおさらいの意味も込めて詳しく書いていきたい。高校一年の11月に東北高等学校選抜大会というのがあった、これが当時一年納めの大会となった。11月だから相撲取りも一年納めの九州場所の時だ。開催場所は青森県の五所川原、普通の体育館にその都度土俵を作るという凝りよう。さすが相撲どころ、県のスポーツに指定されていたくらいだから熱の入れ具合が違う。山形からは遠いので、前泊で行った。うちの高校が定宿にしてるところは、銭湯に宿泊施設がついた割と贅沢な宿舎だった。ちなみにそこの息子は当時小学生だったが、のちのち近畿大学に入ることになる。親父さんも相撲してたのかな、食堂でガタイのtかい人が飯食っていたが、たぶんあれだろう。風呂は銭湯だからデッカくてゆっくり入れるし、周りはすぐ近くにショッピングモールができていて、遊びに行ける。そして、飯が充実していた。さすが相撲してる人の気持ちがわかるとでもいうのか育ち盛りの高校生には涙が出るくらい有り難かった。大会に来てるのに、観光に来てるのではないかというくらいリラックスできた。

大会当日。実質新人戦であるから2年生までしか出ない、参加人数もそれほど多くない。そしてこれは当時の青森高校相撲あるあるなのだが、ほとんどの相撲部は坊主が決まりであった。三年生のインターハイが終われば伸ばしていいというよくわからないルールが存在し、すでに部活を引退し応援に来ていた青森の三年生達はそれまでの我慢を払拭するかのように、髪を伸ばし、目一杯オシャレしようとしていた。前にも書いたが、この大会は自分にとってターニングポイントとなる大会であった。個人戦でいきなり優勝候補に勝ってしまったのだ、でもこれは相手が確実に調子をおろしてきた(なめてかかってきた)。結局はそのあとすぐに負けてしまったが、頑張れば東北でも通用するという何か光が見えた時だった。今でこそ、高校相撲は埼玉栄か鳥取城北が中心となっているが、当時はまだまだ東北も全国レベルだった。東北を制すれば、全国も制する、そんな時代だったのだ。

特に入賞もせずだったが、一年の試合が終了したことも相まって帰りの道中も楽しかった。試合の日のよるはかんぽの宿に泊まったが、ここも風呂・飯共に充実していた。まるで旅行に行ったようだった。さぁ、帰ってきて相撲のシーズンも終わり練習内容も土俵での稽古からウェイトトレーニングを中心に変わる。これは悪い意味で、自分の人生に大きく影響を及ぼした出来事であった。県立高校だから予算もなく、筋トレも充実したマシーンなどなくバーベルのみ。フリーウェイトのトレーニングであった。筋トレなんてやったことないから、まずやり方を知りたい。けれども誰も教えてくれない、見様見真似で覚えるしかなかった。今考えてもゾッとする、自分が指導者なら危なくて絶対そんなことはしない。不満はありつつもとにかくやった、少しずつできるようになったがフォームがバラバラだったと思う。このころから腰が痛くなり、湿布を貼ったり、塗り薬を塗ってなんとか凌いでいた。

これも余談だが、湿布や塗り薬、包帯などにはこと欠くことはなかった。なぜなら、地元の整形外科の先生がうちの相撲部の監督の膝の手術を複数失敗したらしい。なのでその罪滅ぼしなのだろう、何かあればすぐにそのクリニックに行き、どんなに混んでいても真っ先に診察してくれる。VIP扱いであった、その先生もよりによってうちの監督の手術を失敗するとは、ほとほと運がない。

ウェイトトレーニングの他には、野球部の顧問の橋間先生の「橋間教室」というのがあって、複数のクラブが参加してエアロビのハードなかんじな事をやっていた。これはもうほとんど遊び、ストレス発散、やりたくないトレーニングさせられている憂さ晴らしだった。オフシーズンはとても大切な時期であるのだが、どんどん相撲の感覚が衰えていった。エアロビみたいなこともするから、痩せるし不安や苛立ちも出てきた。そんな状況の中、年末に合宿があると告げられた。毎年行っていたみたいだが、その時は参加校も多く、期間も長かった。この合宿で大変なことになる。

 

 

 

 

 

 

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